熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / 信じるなら、その通りになるのか

2016.04.27

カテゴリー:y メシアの生涯

□信じるなら、その通りになるのか

■マルコ11:23は、祈りについての真理を教えている

「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」 このイエスのことばは、祈りの真理について教えるものです。その真理とは、「心の中で疑わず、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになる」という祈りの大原則です。この祈りの大原則がこの箇所の主要テーマなのですが、よく聞く質問が、「祈って信じるなら、本当にその通りになるのでしょうか」というものです。

■信仰のない祈りは虚しい

へブル11:6には、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」とあります。口では祈りながら心の中では疑っていたら、そんな祈りは、していても虚しいです。天の父が私の祈りを聴いていてくださっていて、必ず報いてくださると素直に信じてはじめて、祈ることができます。

■その通りになるには、神の御心と調和していることが前提

「自分の祈りがその通りになると信じる」という原則の一方で、もう一つ大切な祈りの原則があります。それは、「神の御心と調和している」という原則です。その例としては、マルコ14:36、ヨハ15:7をご覧ください。信仰というのは、こういうバランスがとても重要です。

■では、神の御心を知る方はだれか

私たち人間には、神の御心はわかりません。自分勝手な思いが先立つことの何と多いことでしょう。しかし、間違いなく神の御心を知る方がおられます。それは、私たちの心のうちに住んでくださっているキリストの霊、御霊です(ロマ8:27)。

■御霊はどのようにして私たちのうちで働いてくださるのか

ロマ8:26は、つぎのように教えています。「御霊は、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」

■私たちは苦難にもあうが、それもまた神のみこころのうちにある

祈ったらその通りになると信じても、そのとおりにならないことは多いです。どうしてこのような苦しみにあうのか、神はそれを許されるのかと、叫びたくなるときがあります。
しかし、ロマ8:35〜37は、次のように教えています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者になるのです。」

「これらすべてのことの中にあっても」です。苦難は、なくなりません。しかし、苦難の中でも神を信頼すること、言い換えれば、祈ってすぐに手に入らなくても、すでに受けたと信じる、祈ってすぐにその通りにならなくても、すでにそうなったと信じる、それが、神の祝福を受ける信仰です。

■信仰は、そもそも、まだ得ていないものを得たと信じること

私たちが願うところが、すでにかなっているなら、信仰はいりません。へブル11:1〜2は次のように教えています。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」

「称賛されました」というギリシヤ語の原語は、直訳では「あかし(証言)を得た」あるいは「証明を得た」という意味です。同じことばが4節でも使われています。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」

アベルは、信仰によって、義人であることの証明を受けました。その証明は何のためでしょうか。永遠のいのちを受けて神の国に入るためです。

■神の国は、まだこれから先のこと

へブル11:39にも同じことばが使われています。「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束のものは得ませんでした。」アベルから始まって多くの信仰の先輩たちがみな、その信仰によって神の国に入る証明を得ました。しかし、彼らのひとりもまだ、神の国に入ってはいません。なぜ旧約の聖徒たちが待たされるのでしょうか。

■新約の聖徒の登場を待つから

へブル11:40は、次のように教えています。
「神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」

「私たち」とは、新約の聖徒たちです。私たちも、もちろん、信仰によって、神の国に入る証明を得た者ですが、旧約の聖徒たちよりもすぐれたものが用意されているとは何でしょうか。

■聖霊による証印

それは、エペソ1:3〜14に次のようにあります。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基が置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。・・・
この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。・・・
この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」

■旧約の聖徒と新約の聖徒との比較

旧約の聖徒の中で、最も偉大な聖徒は、バブテスマのヨハネです。イエスは彼について、次のように言いました。

「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(マタイ11:11)

聖霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません(ヨハネ3:5)。新約の聖徒は、その心のうちに聖霊を受けています。これが、どれほど大きな恵みであるかを知っていくのが、信仰生活であるとも言えます。

■神は万事を益としてくださる、そのゴールは信者をキリストに似た者とすること

聖霊は私たちの内側で働き、父なる神は私たちの周りで起こるいろいろなことをすべて、私たちがキリストに似た者へと変えられていくように益としてくださいます。ロマ8:28〜29は次のように教えています。

28節「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせ益としてくださることを、私たちは知っています。」
29節「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」

28節だけ取り上げて「神は万事を益としてくださる」のだから、何でも信者にとって良い事ばかりになるはずと主張するのは間違いです。29節とつなげて読めば、それがよくわかります。私たちがキリストに似た者へと変えられていく過程では、苦難もあり、神からの訓練もあるのです。しかし、その中で、どんなことがあっても今の苦しみを通して神は私を御国に導いてくださるのだと信じること、これが信仰です。

熊本聖書フォーラム

代表 :清水 誠一

バックナンバー