熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / イエスの公生涯のまとめ

2016.04.19

カテゴリー:y メシアの生涯

□はじめに

■文脈の確認
イエスは、メシアとしてエルサレムに入城されました。ニサンの月の10日、週の初めの日のことです。翌日の月曜日、いちじくの木の呪いと宮清めがありました。同じく月曜日に、ギリシヤ人の面会希望と「一粒の麦」の教えがありました。
きょうの箇所は、それに続く出来事ということではなく、ヨハネによるイエスの公生涯のまとめです。

 ■アウトライン
 ユダヤ人の不信仰についての分析(ヨハネ12:37〜43)
  不信仰の事実、イザヤ53:1〜12の成就(37〜38節)
  不信仰の原因、イザヤ6:9〜10の成就(39〜41節)
  信じた者にも問題があった(42〜43節)
 イエスの教えの5つのポイント(44〜50節)

 □ユダヤ人の不信仰についての分析(ヨハネ12:37〜43)

 ■イエスは多くのしるしを行った
37節に、「イエスは、ユダヤ人の目の前で多くのしるしを行われた」とあります。イエスや弟子たち以外の人が、イエスのわざをどう見ていたのか、いつくか例をあげてみましょう。
ヨハネ3:2では、ユダヤ人の指導者のひとりニコデモが、「神がともにおられるのでなければ、このようなしるしはできない。」
ヨハネ7:31では、群衆のうちの多くの者が、「キリストが(別に)来られても、イエスより多くのしるしを行うであろうか。」
ヨハネ7:46では、本来はイエスを捕えに派遣された役人たちが、「あのように教える人は、いまだかつていない。」
ヨハネ9:16では、イエスと激しく対立したパリサイ派の人たちの中からも、「このようなしるしを行うことができるのは、神から出ているとしか思えない。」

 ■しかし、ユダヤ人たちはイエスを信じなかった
37〜38節には、ユダヤ人の指導者層とそれに追随した民衆は、イエスを信じなかったとあります。「信じなかった」というギリシヤ語の動詞の文体には、「不信仰な状態を続けた」という意味が含まれます。ユダヤ人たちは、頑固な態度を取り続けたというのです。ヨハネは、このことはイザヤによって預言されていたとして、ここでイザヤ53:1を引用します。「私たちの聞いたことをだれが信じたか。主の御腕は誰に現れたのか。」

 ■主の御腕は誰に現れたのか。私たちの中でだれも信じない
「主の御腕」とは、メシアの称号です。イエスは、イザヤが預言した「主の御腕」、メシアです。しかし、「私たち」すなわち「ユダヤ人たち」はそれを信じないとイザヤは預言し、そのとおりになったと、ヨハネとは言います。

 ■不信仰の原因は何か
どうしてユダヤ人たちはイエスを信じなかったのでしょうか。ここでも、ヨハネは、イザヤの預言(イザヤ6:9〜10)を引用します。
ヨハネ12:40、「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。」、これは、メシアのしるしを素直に受け入れないなら、霊的な目が見えなくなり、心はかたくなになる、ということです。
「それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そして、わたしが彼らをいやすことのないためである。」、これは逆に言うと、メシアのしるしを受け入れると、霊的な目が開かれ、心で理解でき、回心して、神からのいやしを受けることになる、ということです。

ひと言で言えば、イエスがなさったしるしや奇跡を素直に受け入れるかどうか、それが信仰の入口なのです。

 ■イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからである
41節で、ヨハネは、「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである」と説明しています。
イザヤは、預言者としての召命を受けたときに、神の栄光を見ました。イザヤ6:1に、「私は高くあげられた王座に座しておられる主を見た」とあります。そして、どのように見えたか描写して、「そのすそは神殿(本堂)に満ち」と記しています。この記述は、新約聖書最後の巻、黙示録に出て来るイエスの栄光の姿とよく似ています。黙1:13に、「足までたれた衣を着、」とあります。イザヤが見たのは、イエスの栄光だったのです。

 ■エゼキエルも、イエスの栄光を見た
イザヤは「すそ」しか描写しませんでしたが、エゼキエルは、イザヤよりも詳しく記しました。その描写は、黙示録に出て来るイエスの栄光そのものです。
エゼ1:4には、「激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった」。
エゼ1:26には、「彼らの頭の上、大空のはるか上のほうにはサファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった」。
エゼ1:27には、「その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。・・・その方の回りには輝きがあった」。

 ■エゼキエルは、その栄光を、「主の栄光のように見えた」と記した
エゼ1:28には、「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた」とあります。ユダヤ人にとって、「主の栄光」と言えば、それは神殿の至聖所の中に置かれた契約の箱、その贖いのふたの上に輝く神の光を意味します。それを見ることができるのは、大祭司です。祭司であるエゼキエルは、自分が見た栄光が、神殿の奥で輝く神の栄光と同じに見えた、と証言しているのです。

 ■イザヤの預言者としての働き
イザヤはイエスの栄光を見て、預言者として召しを受けました(イザヤ6:1)。そして、その後、次々とメシアに関する預言をしました。その中で重要なのは、次の6か所です。
イザヤ7:14 見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
9:6〜7 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。
42:1〜7  主のしもべ預言
49:1〜13  しもべの落胆
50:4〜9  しもべの訓練
52:13〜12 しもべの受難

 ■ユダヤ人の中で信じた者もいたが、彼らにも問題があった
ヨハネ12:42、「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた」とヨハネは記しています。ただし、彼らはその信仰を公表しませんでした。それは、「会堂から追放される」(ヨハネ9:22)ことを恐れたからです。ユダヤ人にとって、会堂から追放されるというのは、単に自分の思想や信条を抑圧されるだけでなく、ユダヤ人社会そのものから追放されて、経済生活もできなくなることを意味します。
現実に、ユダヤ議会の議員で有力者であったニコデモやアリマタヤのヨセフは、イエスの遺体の下げ渡しを願い出て埋葬するという行動に出て、イエスの弟子であることを公表したあと、経済的・社会的な地位立場を失ったと推定されます。
また、イエスが復活して50日後、ユダヤの祭「五旬節」の日に誕生した初代教会のユダヤ人信者たちは、すぐに共同生活に移行しています。それは生産活動を伴う共同生活ではなく、あくまでも信者になったときに持っていた財産を出し合って、それを消費していく生活です。後年、この地域に飢饉が起きると、経済的基盤を持たない彼らがまず困窮します。それを異邦人信者たちが助けたという記事が、使徒の働きに記録されています。

使2:44〜47  共同生活
使4:32〜35  地所や家を売って分け合う
使6:1     毎日の配給を円滑にするために、七人の執事
使8:1     ステパノの殉教、迫害によって教会は散らされる
使11:28〜29  ききんが起きて、ユダヤに住んでいる信者は経済的に困窮

 □イエスの教えの5つのポイント(44〜50節)
この内容は、イエスがいつ、どこで語ったのかは説明がありません。ヨハネがイエスの教えを要約しています。

 わたしを信じる者は、父なる神を信じるのである
イエスを信じる者は、イエスではなく、イエスを遣わした方(父なる神)を信じることになります。ただし、注意。「イエスは、父なる神から遣わされた方である」というと、私たち日本人には、何か使い走りのような感じがしますが、旧約聖書で「神の使い(単数形)」と言うと、そのお方は、第二位格の子なる神、受肉前のイエスを意味します。

 ■わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのである。
父なる神は霊であり、肉なる人間で神を見た者はいません。イエスの内に見られるご性質は、神のご性質です。ですから、イエスを見ることで、私たちは父なる神がどういうお方か知ることができるのです。

 ■わたしは光として世に来た。わたしを信じる者が、やみの中にとどまることのないためである
イエスは光、すなわち神の栄光、シャカイナ・グローリーです。イエスの肉体の中には、その栄光が宿っていました。変貌山でそれが現われ、ヨハネもそれを目撃しました。神の栄光は、私たちを「やみ」の中から救い出します。
生まれながらの人が捕えられている「やみ」には、3つあります。

まず、無知のやみです。私たちは、イエスにあってそのことばを聴き、はじめて「命」とは、「死」とは、そして「永遠」について知ります。私たちは、イエスにあって真理を知るのです。

二つめは、道徳的やみです。私たちは、イエスによって、罪の責めから解放され、ありのままで赦され、受け入れられるという平安をいただきました。もう取り繕う必要はないのです。

三つめは、悪魔の支配というやみです。私たちは、イエスによって神の守りのうちに入れられました。そして、将来、栄光の体をいただいて、メシアが支配する王国へ入ります。

 

■だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばかない。わたしは世をさばくためではなく、世を救うために来た
メシアの初臨の目的は、さばきではなく、世を救うことです。メシアは、十字架の上で、人類のすべての罪を背負われました。救いは、世に対して、すべての人に対して、提供されています。ただし、それを受け取るのは、一人ひとりの信仰を通してのみです。

 ■わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがある。わたしの話したことばが、終わりの日にその人をさばく
イエスを信じなかった者が裁かれる基準は、イエスが語ったことばです。なぜなら、イエスが語ったことは、すべて父から命じられたことであり、その父の命令は、「信じる者に永遠のいのちを与える」というものです。父の命令は、「信じない者を滅ぼせ」ではありません。生まれながらの人間はみな罪人であり、その行先は永遠の滅びに決まっています。それ以外に行先はありません。私たちが人生のどこかの時点で、イエスが行ったしるしを受け入れ、イエスの十字架を見上げ、復活を信じるなら、私たちは定まっていた滅びの行先から方向転換でき、永遠のいのちを受けることができます。それが父の命令であり、父の愛です。

熊本聖書フォーラム

代表 :清水 誠一

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