熊本聖書フォーラム

メシアの生涯 / ヤコブとヨハネの願い

2016.01.22

カテゴリー:y メシアの生涯

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは、彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」

彼らは言った、「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」

彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

(マルコ10;:35〜40)

 

十二弟子の中に、ゼベダイの二人の子、ヤコブとヨハネという兄弟がいました。十二弟子の中でも筆頭格の三人と言えば、この二人とペテロです。

マタイの福音書20:20によると、このとき、「ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょに」頼みごとをしたと記されています。その母の名はサロメ(マタ27:56、マコ15:40、ヨハ19:25)です。そして、サロメは「イエスの母マリヤの姉」とありますので、ヤコブとヨハネは、イエスのいとこになります。

ヤコブとヨハネの願いは、「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右(最高位)に、ひとりを左(2番目の地位)にすわらせてください」というものでした。

彼らは、メシアの王国が間もなく来ると思い込んでいます。それは、イエスが栄光の座に着く時です。彼らは、その前にメシアの受難があることを理解していません。彼らの頭の中をいっぱいにしている望みは、メシアの王国で最高の地位に着くことでした。

これに対してイエスは次のように教えました。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。」

メシアの栄光に与ることは、メシアの受難に与ることです。弟子たちは、まだこれを理解していません。

続いてイエスは質問します。「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができるか」

杯とは、喜びや神の怒り(裁き)の比ゆ的表現。ここでは、神の怒りです。イエスは、全人類の罪の身代わりとなって十字架の上で、神の怒りを受ける、そのためにエルサレムに向かっています。

バプテスマも同じような意味。「水の中に浸けられる」とは、悲劇的な状況の中に打ちひしがれることの比ゆ的表現です。

ギリシヤ語の疑問文では、質問に対する答えとして「はい」を期待するときと、「いいえ」を期待するときでは、文体が変わります。イエスのこの質問は、「いいえ、できません」という答えを想定した文体でしたが、ふたりの答えは、どうでしょうか。

ヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。ふたりが想定しているのは、メシアの王国を建てるときの戦争に参加して、イエスのもとで戦うということです。彼らは、イエスの受難が罪の贖いのための受難であることを理解していませんでした。

イエスは言いました。「なるほど、あなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。」

イエスは、杯とバプテスマを、別の意味で彼らに適用しました。彼らもまた、苦難に会うことになるという意味です。実際に、ヤコブは、殉教の死を遂げる最初の使徒となりました(使徒12:2)。ヨハネは、90歳代まで生きましたが、多くの迫害や追放を受けました。新約聖書の最後の巻、黙示録は、ヨハネがパトモス島に留置されていたときに神から受けた啓示を記録した文書です。

イエスは、さらに言われました。「しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではない。それに備えられた人々がある。」

メシアの王国は必ず将来、この地上に建てられます。そのとき、誰がどの位につくかは、父なる神が決めておられます。

 

(出典:中川健一 講解メッセージ「メシアの生涯 第147回 『受難と復活の予告』」)

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代表 :清水 誠一

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